生きてない、生きてない。
死んでない、死んでない。




三葉虫 Trilobite





僕が死ぬ?
そんなことありえない。


*

電車が遅れている。


自動車なんてハイカラかつ高価な物をこの街の住人が好むわけなく、
街の人間の足は路面電車と自転車と徒歩に限られていた。
街の中を縦横無尽に走っている路面電車は、常にとろとろと時刻表通りに運行している。
それなのに、今日は時刻表が示した時刻を過ぎても停留所に来ない。


「電車、こないね」
「そうだね。でも帰りで良かった」


隣室の紗緒が少しイライラした調子で話しかけてきた。
そういえば、勤労学生の狭乃がさっき慌てて脇を走って行っていた。
きっと、仕事に遅れてしまうのだろう。彼奴は真面目すぎる。




「彬さー、私的には行きの方が遅刻する言い訳できて授業さぼれて良いと思うんだけど」




紗緒は不真面目だ。

授業にはでる、が寝てる。
宿題はやる、が僕のを写してる。
本は読む、が途中まで読んで最後に飛ぶ。
料理は作る、が缶詰を開けただけ。
話をする、が途中で違うことを始める。
待ち合わせをする、が10分以上遅れる。
他にも紗緒の不真面目さを上げればキリがない。





だけど、紗緒が唯一真面目になれることがあった。
それは恋であり、狭乃についてのことだった。





昔、夜遅くに紗緒に泣き付かれて散々お喋りをしたことがある。
それは、紗緒が狭乃に恋する前で紗緒が愛だの恋だのについて一生懸命語ってくれたのだから お喋りとは違うかもしれないが、紗緒は真剣だった。 愛も恋も理解できないとか、そんな物ありはしないだとか、否定的に語って僕は相槌を打つ だけど、紗緒は結局、愛も恋もその存在も認めていたのだ。




そしてその数日後から狭乃に恋しているのである。




僕は、正直、狭乃が羨ましくて、狭乃のことを逐一僕に報告する紗緒が疎ましかった。
もっと言えば毎朝睨め殺さんとばかりに狭乃のことを見つめる知古も、 意識の薄い別砂も嫌だったし、毎日顔を合わす誰も彼もがどこかしら好きになれなかった。

そんな僕は我が儘で自分勝手で、詰まるところ自己中心的な考えの集合体だったのだ。






+ + + +




死ぬことがない?
そんなことありえない。


*

その日の夕方、僕は外を歩いていた。
電車は先程の遅れから回復したらしく時間通りに停車駅を通過している。
僕はそんな電車を見ながら歩いていた。

ふと、昔、運転手になりたかったことを思い出した。
昔のこと、つまり小さいときのことだからはっきりとは断言できないけど、

僕は路上を縦横無尽に這う線路の上しか走ることが出来ない路面電車の運転手に憧れていた。 運転手達の頭に載っている制帽が欲しかっただけかもしれないけど。
時間通りにきっちり来る電車、駅を出発するときと到着するときにかける社内放送、 白い手袋、毎朝直す懐中時計、群青の上着とズボン、襟にピンを付けたYシャツ、 二の腕の腕章、どれを取っても素晴らしく格好いいものだけど、その中でも制帽はずば抜けていた。

僕は電車に乗るわけでもないのに定期を改札に通して駅の中へ入り、ベンチに座った。


「次は1822(ひとはちにいにい)」


読みについては自信がないが多分合っている。
真っ赤に染まっている太陽は何とか現象の所為で太陽が燃えてるからじゃないと信じている。 夕焼けや朝焼けの時だけ昼間よりも燃えてるとかおかしいと思うから。 東の空は運転手の群青とは違う群青がまさに群をなして空を覆い尽くしていた。


「坊ちゃん、ひとりかい?」


1822の電車が行ってしまった。
会社から帰ってきたサラリーマンや一寸遅めに学校を終えた女学生、山高帽の紳士。
三人。この駅は無人駅だし近くは畑ばかり。三人でも多い方ではないのだろうか…


「坊ちゃん、返事は出来ないのかい?」


山高帽の紳士が何かを話しかけてくる。
彼は今時見かけないような格好をして手には曲線を描くパイプを持っていた。
煩わしいと思いだんまりを決め込んだ。


「坊ちゃん、君は死を知っているかい?」


何を言い出すのだろうこの紳士。
そんなことを初対面の人間に聞くなんて紳士じゃないのかもしれない。
サラリーマンと女学生は草臥れた顔を隠さず改札に定期を通して出て行った。


「坊ちゃん、君の脈、止まっているよ?」


いきなり、右の手首に三本の指を添えるように持ちそう言った。
そんなわけない。僕はこうして思考しているのだから、
僕の脈はまだ打っているはず。


「坊ちゃん、今救急車を呼んでくるよ」


だけど、


僕の体は


どんなに脳から電気信号を送っても


重くて重くて動かなかった。










僕の死体を病院に迎えに来たのは狭乃と紗緒だった。










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